石の街並み 景観を守る。創る。
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「石の街並み景観を守る。創る。」事業の主旨


 

わが庵は菟原住吉芦屋潟海の眺めを南にぞ見る

東京生まれの谷崎がこの地にめぐり会い、生活に、またその制作活動に全霊で打ち込める喜びを、震えるような感動で歌った一首です。
北に六甲の峰、南に大阪湾を臨む温暖な住吉は古来より住み易い開けた土地でした。

この住環境を決定的に演出するのが裏山で産出する六甲の風化花崗岩、御影石です。
さんさんとふりそそぐ太陽。豪壮な御影石をめぐらせた塀。きらきらと光る街並み。やさしい薄ピンクの石積み。御影石の色調が清潔で軽快なリズムを奏で、ハイカラとはこのような事をいうのだと納得します。

この良質の御影石は古来より知られており歴史にも記録されています。

古く、3-4世紀の古墳時代。この地を支配した豪族の墓と見られる住吉宮町の求女塚古墳。墳丘は既に失われてしまっていますが昭和57年に行われた発掘調査によって県下でも有数の大きな前方後円墳であったこと、また、墳丘はこの地に産出する御影石で覆われていたことが判明しました。太陽に生えきらきらと光る墳丘はきっと被葬者の威厳を物語った事でしょう。

下って、16-17世紀の豊臣徳川時代。豊臣氏の大坂築城、或るいは徳川氏の再築にあたっては、この地の御影石が切り出されました。一旦、石屋川の河口に集められ水運を利用して大阪湾を横切り運ばれました。住吉の地名、“住吉村字鍋島“は、築城参加を命ぜられた九州佐賀の大名鍋島公が置いた陣屋(現場事務所)の跡と言われています。ここに大勢の武士が詰め荒神山から石屋川までの石材の搬出を督励したことでしょう。築城お手伝いは、幕府に対する忠誠心の踏み絵として、少しでも粗相があれば即、お家お取り潰しにつながり、戦場と同じ覚悟で臨んだといわれています。そのため敏速に石材を運ぶための工夫をなされました。石屋川をせき止め、水を溜め、そこに大きな石を入れ、浮力で下流へ流し、またその下をせき止め水を溜め、また下へ流す、といったパナマ運河の閘門(こうもん)の原理を当時の日本人は経験的に知っていて使っています。

更に、18世紀、ご存知水戸黄門さま。大日本史を編纂した黄門様こと徳川光圀公は湊川の戦いで後醍醐天皇のために憤死した楠正成公の記念碑を作る事を思い立ち、家来の助さん、こと佐々助三郎を住吉村に派遣し、荒神山で石材の選定をさせました。この石材は、湊川神社境内の正成公の墓所に石柱として残り、表には「 嗚呼忠臣楠氏之墓 」と刻まれています。石工は住吉(空区)の権三郎という人であったと記録されています。

この良質の花崗岩は江戸期を通じ全国へ出荷されました。石の切り出し場所は住吉ですが全国に積み出されたのが御影石屋川の河口であったので通称が御影石となったのです。

本住吉神社の正面鳥居、お旅所の鳥居、また、若宮八幡宮の鳥居なども全て住吉の荒神山の石材を使用していました。

そして、今、我々が目にする、白鶴美術館の石塀に代表される豪壮な構えに至るわけです。このようなことを踏まえ、「石の街並み景観を守る。創る。」事業を通して出来るだけ後の世代に伝えたいと思います。

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